戸田塾 =面接のすすめ=

新潟公務員法律専門学校就職室長が語る面接で勝つ方法

仕事って世の中の当たり前を提供すること

実は凄い「当たり前

「JRの定時運行」「ヤマトの小口貨物の時間指定」私たちにとって「当たり前のこと」ですが、よく考えると凄いことだって思います。列車の定時運行の脅威についてはメディアでもよく取り上げられますが、そのような話を聞くと日本人であることに誇らしい気持ちになります。

さて、本日は企業や自治体など組織が提供する製品やサービスの価値について考えてみます。我々は製品やサービスに対し、対価としてお金を支払ったり税金を納めたりしています。そして、当たり前のようにその製品やサービスを謳歌しています。例えば今、パソコンに向かって文章を打っていますが、ローマ字で入れた文字が日本語に変換され画面に出ること、記事を公開するとインターネット上で見ることができることなどを当たり前にこなしています。でも...よく考えるとこれらのことがなぜできるか不思議です。これって「とんでもないこと」ではないでしょうか。「凄いこと」ではないでしょうか。でも現在を生きる我々にとって当たり前だし常識なのです。

仕事って「当たり前」を創り出すこと

この、当たり前を創り出すために数々の組織で多くの人が努力し続けています。コンピューターメーカーから始まり、通信業者、電力業者、サーバー管理者etc.そこに働く人たちの努力があるから快適な生活を送れると考えると感謝感謝です。企業や自治体などの組織がその価値を提供してくれるから、その対価としてお金を支払っているわけです。

就職活動の先にあるものは、勤め先の組織で何らかの価値を提供する一員となるということです。「当たり前」のものを「当たり前」に提供することがほとんどですが、その当たり前を創ることが凄いことだと私は考えます。さらには、将来、その「当たり前」を繰り返すことでカイゼンし「新しい当たり前」を創り出すことができたら最高ではないですか。

実をいうとどんな仕事も人々の生活の当たり前を創り出すことなのです。それを「カッチョイイ!」と感じるのは私だけでしょうか。私も学生たちに、学生たちにとって「当たり前」の就職指導を提供し「当たり前」に志望企業に就職させたいと考えています。そんな「カッチョイイ」ことを自分も行っていきたいと仕事に「ワクワク」します。

学生たちに感じてほしい「当たり前」を創るワクワク感

いつも、学生に仕事にワクワクしろと話すのですが、なかなかわかってくれません。お客様が「当たり前」と思っている製品やサービス、実は「とんでもないこと」「凄いこと」それを創り出すために努力し続ける。このように考えるとワクワクしませんか?企業研究をするときに是非「ワクワク」を探してください。「当たり前」を創るワクワク感を感じることが出来れば、志望動機完成はもうすぐです。

社会人にとって勉強って何??

❖社会人にとって勉強って??

学生に対していつも「新聞を読め」「本を読め」「見識を広げろ」「行動しろ」と口を酸っぱくしながら言っている私なのですが、実を言うと、その言葉は自分に対しての言葉でもあります。自分としては「新聞を読み」「本を読み」「見識を広げ」「行動している」つもりなのですが、就職指導やゼミを行う中でいつも感じるのは「自分の知識の幅の狭さ」「考え方の未熟さ」です。その焦りから勉強は怠らないと心に決めています。(50歳も過ぎてこんなこと言うのもなんですが…本当です…)

学生たちに「私は今、私にとって最高の授業をしている」「しかし、来年は絶対にこれより良い授業をする」「つまり、私にとって授業は実験である」「毎年、今最高の授業をするが来年はもっと良い授業をする」とよく言います。この言葉を言うと学生たちは「実験ですか?」嫌な顔するのですが、その後に前年との違いや、今の実力で最高の授業をしていることを説明すると納得します。続いて「私は死ぬまで成長を続けたい」と言うと、マタマタ…って顔をして私を眺めます。さらに、学生が卒業した後に遊びに来て、ゼミに一緒に入った時に「去年はこんな企業とのコラボなかったですよね」と言われた時には、満面の笑みで「成長するって言ったよね!!有言実行さ!!」と鼻を膨らませながら言ってみます。

❖成長はいつまでも続く…主体性があれば…

さて、学生の皆さんは今まで学校という場で成長し続けてきたのではないかと思います。努力もしたと思います。しかし、ここまでの成長は高い確率で外部から与えられるものだったのではないでしょうか。母ちゃんや父ちゃんから、近所の人たちから、学校の教員から、部活の顧問から…etc.これって学生の特権です。社会人になると勉強は主体的に行うものです。誰が与えてくれるわけではありません。社会は保護者や教員と違い勉強を強要しません。大人ですから自分の考えでどうするかです。でも、そこで差がつくことも事実です。

「新聞を読め」「本を読め」「見識を広げろ」「行動しろ」これはすべて勉強です。誰も「勉強しろ」と言ってくれない社会人になる前に気付いて欲しいとせつに思います。勉強はすればするほど未熟さに気付きます。そして、もっとしたくなるものなのです。

ポテンシャルって何??

❖ポテンシャルを定義する

ポテンシャルを辞書で引くと「潜在的な力」「可能性としての力」だそうです。今は力はないけど将来的に力を発揮する可能性が高いということでしょうか。新卒採用にあたり人事はそのポテンシャルを見極めることに躍起になっています。では、どのようにして「ポテンシャル」を見極めるのでしょうか。

まずは、力のある人を想像してください。それがポテンシャルのある人の将来の姿です。仕事上では「成果をあげる人」「結果を出す人」が力を出す人となります。「成果をあげる」「結果をだす」すなわち、成功を導き出すために必要なのは「あきらめない」「何にでもチャレンジしてみる」などの行動力。「経験豊富で判断力がある」「失敗体験・成功体験を振り返り将来に活かすことができる」などの過去の行動の多さと振り返る姿勢。「他の人とわかり合う」「他人を理解する」などの他からの吸収力を使った能力向上。このような能力の結果、成功を導き出す能力を手に入れたのではないかと考えられます。そうであったとすれば、ポテンシャルは
何にでも挑戦していく「行動力」「スピード感」
絶対にあきらめない、逃げない「忍耐力」「熱意」「責任感」
他人を受け入れる「素直さ」「柔軟性」
この3つの能力を持っていたら将来「成果をあげる人」「結果を出す人」になると考えます。

❖ポテンシャルを持つために

できるだけ最短距離で苦労なく将来の目標を手に入れようと考え行動する学生がいるのですが、それを見ると「将来苦労するだろうな」と可哀そうになってしまいます。直接、将来に関係ないと感じることでも必死に立ち向かっていくと、何かが見えるものです。「ムダ」という考えが一番「ムダ」ということをわかって欲しいと心から思ってしまいます。

「ムダ」と考えず、とりあえず今できることをすべてやっていくと、その行動のなかで何か気付くことがあります。それを繰り返していくと気付きが少しづつ増えていき、将来の成長につながっていきます。

とりあえず、何でもよいので行動してみませんか。やってみると結構楽しかったりしますよ。

今日は社会人視点を考えます

何年か前にド田舎に実家を持った学生が、そのド田舎についてプレゼンしてくれたことがあります。地域活性化について考えたプレゼンです。その視点が面白かったので少し紹介します。

曰く

「うちの地元の一番の資産は爺さんと婆さん。天気予報より当たる明日の天気、田植えや稲刈り時期を最高のタイミングで当てる技術、お宝がいっぱいねむった漁場を言い当てるその見識、どれをとっても天下一品、僕らの誇りです。高齢化サイコウって思います」

曰く

「近所の磯部さん50歳、地元で一番の若手です。祭りに消防団、何でもこなすその姿はボクの憧れです。えっ50歳って若手じゃない???都会の人は老けるのハヤイんですね…」

他にも色々言っていたのですが、このプレゼンを地元の自治体が主催する地域活性化シンポジウム(若い意見を聞こうということなのか、学生ですがプレゼンをする時間をもらっていました)でやって、熱く語る彼に観衆はスタンディングオベーションでした。ちなみに今、彼は地元の市役所で働いています。

皆さんは彼の視点どう思いますか。地元の資産をどのように活用するかを考える話の中で、他の識者の考えと全く違う視点でウケまくっていました。視点を変えることの大切さを教えてくれたプレゼンだと私は思っています。

何らかの企画を考える時、視点を色々と変えてみていく事で、良い企画が生まれる場合が多々あります。これは、自分を売り込む就職活動でも当てはまることです。

就職活動をする学生たちは視点を学生視点から社会人視点に変えなければいけないのですが、なかなか、分からず四苦八苦します。自分を売り込む視点を作るために、次の問題を学生に出したりもします。

前に紹介したものですが、次の問題を考えてみてください。

あなたにとって「働く目的」とは何ですか。あてはまるもの3つお選びください。

次世代の人を育てるため・仕事を通じて社会に貢献するため・やりたいことを見つけるため・国民の義務だから・仕事自体が生きがいだから・顧客に喜んでもらうため・収入を得るため・人間関係を豊かにするため・社会的に自立するため・自分の能力人間性を高めるため

さて、答えは出たでしょうか。では、次の問題を出します。

あなたは税金を支払っている市民として市役所職員にどんな仕事に対する姿勢を期待しますか。

次世代の人を育てるため・仕事を通じて社会に貢献するため・やりたいことを見つけるため・国民の義務だから・仕事自体が生きがいだから・顧客に喜んでもらうため・収入を得るため・人間関係を豊かにするため・社会的に自立するため・自分の能力人間性を高めるため

この2つの問題を見ていかがだったでしょうか。

視点を変えると全く違う答えが出てきます。社会人視点は市民としての視点をきちんと理解したうえで、考えた視点です。

社会人視点で考えろって言いますがどういうことですか。学生からよく言われる質問です。「学生視点は自分視点」「社会人視点は他人視点」というと学生たちは「私たちだって客観的な視点で考えたり、相手の立場に立って考えたりします」と憤慨されます。確かにその通りだと思います。学生たちも客観的な視点や相手の視点で物事を考えることをしています。さらに、その幅をもっともっと広げたら良い社会人になれるのでは、と考えています。

リーダーが主役?それともプレイヤーが主役?少し考えてみました

自己PR等でリーダー経験を語るとき、ちょっとずれてないかと思ってしまう学生がたまにいます。「チームの要としてチーム全員を引っ張って良い方向に導いた」と言う方々です。
 
学生と言う同質の集団で、同じ学年の仲間たちがいる中で、なぜ「導いた」などと一段上からものを言うことができたのか疑問です。また、まだ短い人生の中、リーダー経験も少ないなか、リーダーとして数々の問題に正解を出すことができたのか、という疑問もあります。経験してきたそのチームの目的を達成するための道のりは、そんなに単純だったのでしょうか。
 

単純な問題で、どのようにすれば良いか明確な場合、リーダーはチーム員にやり方を教え、作業の指示を出せば仕事は成功します。「俺についてこい」と周りを牽引する。そうすることによって成功を引き寄せる。このようなリーダーが優秀なリーダーとなります。


複雑な明確な答えのない問題の場合、リーダーですら、どのようにしたらよいか悩むことになります。成果をあげるためには仮説を立て精査し、その仮説に従って行動を続ける。この方法しかありませんから、リーダーが牽引したとしても、必ず成功するとは限りません。もし、リーダーの仮説が間違っていて成功しなかった場合、チーム員には不満が残ります。
 
さて、現在ある仕事は正解のない複雑なものがほとんどです。つまり、牽引するリーダーは、現在我々に課せられた正解のない仕事を達成するためのリーダーとしてベストではない場合が多いと言わざるを得ません。
 
リーダーの大きな役割として「場」を創る、というものがあります。過去の組織でリーダーが創る場とは、目標を達成するために、リーダーがその地位を使って牽引する場でした。今も単純労働などの目的までの道のりが明確なものであれば、リーダーが創る場は同じで問題ありません。
 
しかし、目的までの道のりが不明確なものの場合、リーダーの仕事は、プレイヤー全員が考えそれを組み合わせる場や、プレイヤーが主体的に動く場を創ることが重要になってきます。プレイヤー一人一人が頭脳となりそれを組み合わせることによって、リーダーのみでは到底考えることのできない仮説を立てることができるだけではなく、プレイヤー全員が当事者意識を持って目的に対し行動することが出来るようになるわけです。
 
この場づくりを実行するためには、主役はリーダーからプレイヤーたちに移譲する必要があります。主役はプレイヤー、フォロワーがリーダーと言う図式で物事を行っていく。この時にリーダーが持つ必要のあるリーダーシップのことをサーバントリーダーシップといいます。
 
また、プレイヤーは主体的に問題に取り組んでいかなければなりません。それぞれがリーダーシップを発揮し動く必要があるわけです。このリーダーシップとは誰かを引っ張るものではありません。必要な場を創り、目的を果たすための行動をする力です。
 
私が考えるリーダーシップの持論については、また後日お話させていただきますが、リーダーシップはリーダーだけが持つものではなく、チーム全員が持つものだと考えてください。リーダーの役割はチームを目的に向かわせることです。プレイヤー全員が主役だったとすると、全員がリーダーシップを持ち「場創り」を行う必要があります。
 
良いリーダーがいて良いプレーヤーがいてその二つが協力しあい目的を達成していく。そんな仕事を私もしていきたいと思っています。

受け入れるって「ワッカル!!」ていうことと違う!!

「受け入れることが大切」って言うけど、全てを受け入れていたら、身がもたない。全てを受け入れるなんて神様にしかできないこと。そんなふうに言ってくる学生がいます。
 
確かに、その学生の考える「受け入れる」と言うことをすると身がもたないのだと思います。さらには、そんなことができるのは神様だけなのかもしれません。
 
そんな時に「ごめん、ごめん、きちんと受け入れるの定義を説明していなかったよね」と返し説明します。
 
このブログの中でも確か、受け入れるについて説明したことがなかったような気がします。今日は「受け入れる」を定義してみます。
 

受け入れると言う事は「同意する」「承認する」「従う」ということとは違います。同意するとか承認するとか考えると、なかなか他人にそれはできませんよね。それを無理やりやろうとすると、 ストレスが溜まります。今あるその事実をきちんと認めること。これが受け入れるということです。事実を認めるだけですから、受け入れる人は、ストレスはたまりません。「なるほど、自分とは違うけど、そのような考え方もあるんだ」など考え方の違う人や、今まで体験したことがなかった環境に対して、その事実を知るとともに対処を考えていきます。

 
決して自分と違う考えに対して「ワッカル!!!そうだよね!!!」などとは言いません。わからないものはわからない、違うものは違う、そして、その違うと言う事実を認める。これが「受け入れる」と言うことだと私は考えています。
 
事実がわかれば、それをきちんと心で理解すれば、解決策を考えることができます。どのようにすれば良いか、どのようにすれば上手くいくか、考えることができるのです。
 
人と自分は違うものです。100%満足する環境に遭遇することは稀です。そこを前提に、その事実を受け入れると、未来が広がるような気がしませんか。そして物事に対してポジティブに考えることができる気がしませんか。みんな違うんです。思い通りになんてならないんです。そこが最初です。
 
「どうすれば上手くいくか考えよう」これを合言葉にしませんか。自分と人が違うなんて当然じゃないですか。人との違いに視点を置いて「わかってくれない」とか考えるよりずっと楽しいですよ。

 

若さってなんだろう??

面接練習などで学生が良く「若さが武器です」「若い感性が大事だと思います」などと話してくるのですが、これを聞くと「なんだかな」と思ってしまいます。確かに「若さ」は素晴らしいことです。でも、若さを定義することなくこの言葉を使われると私達おやじにとっては、なんか違和感があります。

先日ツイッターで面白い書き込みを見つけました。

小学生「ぼくがせかいをすくうんだー!わるいやつはゆるさない!」中学生「僕が腐った日本を根本から救うんだ」高校生「自分の好きな女一人救えないなんて…俺は...」大学生「今の俺にすくえるのは鍋のアクくらいだよ」(ウニ*紅楼夢N20abこいしコスさんのツイート)

さて、自分の幼い(若い??)時の感覚を思い出したでしょうか?

小学生は無邪気・中学生は中二病・高校生で現実を知り・大学生であきらめる…確かに!!と思ってしまいます。小学生は「自分に経験がないから恐れを知らない」でも、この無邪気な考え方にパワーを感じてしまうのは私だけでしょうか??ここに若さの強みの秘密があると私は考えています。

ずいぶん前になりますが、若くして成功した経営者の考えをホームページで見て感動したことがありました。彼は若さが強みではないと次のように語っています。

少し前ですが、取材を受けているときに、「若さは強みですよね?」と聞かれ「そんな訳ないじゃないですか。仕事は経験がすべてですよ」と少しむきになって答えました。話をしているうちに、若い藤田さんが言うなら説得力があると言って頂けたのですが、現在30歳になって改めてそう思います。自分のこれまでの経験こそが強みだと思うと同時に、今後目指しているもの対する経験の浅さに焦燥感をいつも感じます。若さが強みになっているかのように見えるのは、経験不足を補うだけの、行動の量、スピード、柔軟性、情熱などがあるからです。逆に言えば、行動の量や情熱などで経験の無さを補う努力を忘れた経験不足の若い人が活躍できる可能性は極めて低いでしょう。((株)サイバーエージェント(アメーバ―などを運営する企業)創業者藤田晋氏が2004年社員に宛てて書いたメッセージより抜粋)

確かに「経験こそが強み」という考え方、それを得るための「行動の量、スピード、柔軟性、情熱」こそが「若さの強み」という考え方には説得力があります。また、若くして様々な経験を積み会社を大きくしてきた藤田氏だからこそ言える言葉だとも思います。

先程あげた小学生は無邪気な心で「世界を救う」と言っていました。藤田氏は現実を知る努力を惜しまず、問題を打破するために「情熱を持ち、努力を惜しまず、行動し続けた結果」成功を収めました。現実に向かい合い、真っ直ぐで、素直で、諦めない心、私達おやじたちから見ると、無邪気で危なっかしいけどがむしゃらで応援したくなる気質。これが、若さなのではないかと私は考えます。

「若さ」すなわち「行動の量、スピード、柔軟性、情熱」を持ち続けた学生になって欲しい、さらには自分もそうでありたいと、いつも思いながら教壇に立っている私なのでした。